2012/01/11

8年目のGENGAについてのメモ

<連絡:昨年、iPhoneがニューヨークのどこかで消えました。3/15あたりまでのアメリカ外からの連絡はhirakusuzuki@wordpublic.comかhirakusuzuki02@gmail.comマデ、またはfacebookかskypeでよろしく。>














昨夜はNYで参加したグループ展のオープニングがあった。ラズや音楽家の恩田晃さん含め、たくさんの新しい友人達も来てくれて、Location Oneディレクターのクレアのロフトでアフターパーティーもあり、皆で楽しい時間を過ごした。当初のプランとしては作品「GENGA」の映像をシンプルに展示するつもりだったが、結局はバッチリ壁画も描いてしまった。ついつい、癖で。
でも、もう自分にとって作品の形態は入り口に過ぎないと思える。逆に入り口さえちゃんと設定すれば、あとはただそこから続く道を自分の速さで進むだけでいい。まっすぐ進んだり、抜け道や細かい道を選んで歩いているうちに、大きな歴史上の道に出くわしたり、ずっと昔に通った懐かしい道と交差する。そこには滝があったり、鉱山があったり、枯葉や、アスファルトや、マンホールがあったりもする。わざと未踏の森に迷い込んでそこにぐねぐねと迷路のような道を描き足したりもしていく。そしてまた手で、向かうべき方向を問いかけ続けていった先に、最終的に「これでしかない」という出口を、現実の中に見つける。その軌跡が新しい地図になれば、それは必ず作品になる。だから、いつも次に作るものが一番いいんだ。

来場していたMoMAキュレーターのクリスチャン・ラトメイヤーは僕の作品を見て、笑いながら固い握手を求めてきた。そんなつもりはなかったが、アホみたいに涙が出そうになった瞬間であった。西欧美術史の再生産とマーケット至上主義が加速するアートワールドを残念な思いで遠目に見ながら、極東の島国日本で粛々と自分の制作をしていた2年ほど前、クリスチャンの「Compass in Hand」という本に出会って衝撃を受けた。これはドローイングの全く新しい定義づけと拡張によってこれまでの美術史を塗り替え、それによって現実を見る視点そのものを変化させるような革新的な展覧会のカタログブックだった。コンパスは手の中にある。僕は自分と同じようなことを考えている人が遠く世界のどこかに居てデカイことをやっている、という事実に感激すると同時に、どうしてもそこに届かないちっぽけな自分の立ち位置に、言いようもなくもどかしい思いを噛み締めた。だから、2年越しのNYでのこの出会いは本当に感慨深かった。アーティストとキュレーターとかいう関係性に限定したことではなく、僕は自分の作品をしかるべき人に、しかるべきタイミングで直接伝えることが、どれだけの相乗効果を生み出すかを知っている。

ちょうど8年前の2004年に「GENGA」を描きはじめた頃、派遣社員だった自分は、銀座のオフィスに通い、求人情報誌に掲載する地図を作成するという仕事をしていた。統一された規格で、誰が見ても分かるような地図を作らなくてはいけなかった。でも仕事中はキーボードの下に白い紙をしのばせ、一瞬でも空いた時間にはそこに何か小さなカタチをメモしていた。昼休みはもちろん集団ランチをヘラヘラしつつ断り、日比谷公園のベンチで一人、ひたすら紙にスケッチをしていた。終業後は東中野の薄暗いアパートに直帰して、夜の7時から明け方まで、原始人みたいにコピー用紙とマーカーで「GENGA」を描いて描いて描きまくっていた。だいたい1日20枚描いて、1,2枚を残してあとは捨てていた。そこには何の目的も、野心もなかった。キャンバスに描かないと西欧絵画史の文脈に乗らないから売れないことなんて高校生の時から大体知っていた。というより、当初はこれを発表しようとすら思っていなかった。ただ、何かこの世界には、少なくとも自分が感じ取れる世界には、日本語とか英語とかという既存の言語では捉えることのできない普遍的な言語が既に存在している、という確信だけがあって、その全てを描き尽くしたい、そうせざるを得ない、という切実さがあった。

「GENGA」は、まず家に遊びに来た信頼できる仲間たちに面白がられ、ごく個人的な関係性の延長上で拡がっていき、やがてパリに居るアニエス・ベーというとんでもない好奇心と知恵を持った人物に深く受け止められた。彼女は一瞬ですべてを理解した。絵を見た直後に、「あなたは子供のころから絵や文字を描くのが好きだったのね」とニッコリ笑って、何も質問してこなかった。「あなたは私の友達だ」と言った。ある意味、作家以上にその作品を理解する人というのが実在することを初めて知って、本当に驚いた。僕がインタビュー等でいつも子供のころの話をするのは、そういうわけだ。
自分から売り込んだことは一回もないが、「GENGA」は東京でもストックホルムでもシドニーでもソウルでもサンパウロでも、もちろんパリでも見せる機会に恵まれた。そして絵が1000枚に達したと同時に、また新たな出会いから、金沢21世紀美術館の一番大きな展示室の壁一面を覆うことになり、2010年の2月にはアニエスの支援を受けつつ、東京の河出書房新社から本として出版された。この、少なくとも100年の耐久性を持った1000ページの文庫本は、アムステルダムのIDEA BOOKSからベルリンなどへ少しずつ拡がっていき、2011年の夏に個展をやったロンドンのセンター・フォー・ドローイングのライブラリーにも入った。こうして「GENGA」は本として、コムデギャルソンの川久保玲さんや、NYのジョナス・メカスやマット・マリカンなど僕が尊敬するアーティスト達の手にも渡り、そして昨日、現在世界でドローイングに携わる最も重要なキュレーターであるクリスチャン・ラトメイヤーにまで届いたというわけだ。この事実は素直に驚くべきことだし、希望を感じさせることである。つまり個から始まった作品そのものが、個の意識を超えて遠くの人や場所と出会い、まるで新しい星座を描くように拡がっていくこと。そしてまだまだ新しい人や未踏の地と出会い続けることは間違いないだろうということだ。

当たり前だが、美術館や海外のエライ人に認められたらエライ、というようなデカダンな話じゃない。ただ僕は、世界が、人間の生が、いくら複雑で困難になろうと、創造性の最も深い部分をシンプルに、生きていく力学そのものに近いところに取り戻したくて、そのためには、もうひとつ別の言語が必要だと思った。想像力を既成の記号体系から解き放ち、野性に保ち続けるための、世界の謎に触れるための新しい地図を自分の手で描いて、それを広い世界に問いかけたかった。

そういえば先日、アメリカの伝説的なダンサーであるトリシャ・ブラウンの個展に行って、初めて彼女のドローイングをまとめて見ることができたんだが、最初の一枚を見て、なにかスッと腑に落ちるものがあった。ドローイングといっても、本人が手や足の指に木炭を挟んで、巨大な紙の上で踊った痕跡である。まずまっさらな紙があって、その地平の上に、ある速度とリズムを持った身体と精神の動き、ストローク、跳ね、振動によって、未知の文字の断片がポツポツと生成されていって、それが大きな流れになり、そしてコトバになる直前でフッと消える。そんな巨大な地図のような絵の前で、レコードを再生するように、彼女の身体と精神の軌跡をそのまま体感することができた。ああ、これがこの人の話し方なんだなーということが自然と感じられた。

ジャック・デリダが「舌語(舌の言語)」と呼んだアンドレ・マッソンのオートマティックドローイング、それからアンリ・ミショーのムーヴマン、ブライオン・ガイシンの砂漠のカリグラフィー、マット・マリカンのヒプノシスドローイング、石川九楊の書、あるいは街中でふと目にする無名のグラフィティライターによるタギングも含め、僕がずっと気になり続けているドローイングに共通して感じられるのはこのことで、それらはいまだ解読されていない地図でもあるということだ。作家が死んでいるかまだ生きているかはあまり関係なくて、どれだけ時間が経とうと、彼らの絵は見る人の内側のプレイヤーで再生されることで生き続け、精神の地図を拡張し続けている。彼らの絵はカッコよくはないし、立派なキャンバスに描かれたものではないから、美術館で見てもなかなか収まりがよろしくない。しかし彼らの絵は、言語になる直前の状態で雄弁にしゃべっている。世界中の言語体系から自ずと外れたところで、「これでしかない」というような体系を持っている。何を言っているのか分からなくてもいい、とにかく彼らの身体と精神が辿った道筋そのものが証拠として刻まれた地図が、それぞれの話し方で、話しかけてくる。そういう絵と向き合うと、そこにある謎と、自分の内側の謎が時空を超えてエコーする。そうしたら今度は自分の内側の謎と外の現実世界にある謎が共鳴して、また新しい地図を描きたくなる。それがまた絵を見てくれる誰かの内面の謎と響き合っていったら嬉しいし、そうやって新しい想像力の地図がどこまでも拡がっていったらいい。

僕はいつも、世界がどれだけ広くて、人間はいかに何も知らないか、そして今でも世界がどれだけ新しい可能性を秘めているか、そういうことを問いかけ、引き出し、引き出され続けたい。だから、この仕事には終わりがないんだと思う。

2012/01/01

謹賀新年

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

2012年1月1日
Rockaway Beach, New York